*ただそれだけが*
主の髪が、首筋に触れる。
さらさらとした毛先が素肌には妙にくすぐったくてたまらなかったけれど、アキラが身じろぎすることはなかった。
心地よい重みを体全体に感じながらゆっくり瞳を閉じる。
先ほど、シキが部屋に入ってくるなりベッドの上にいるアキラをきつく抱きしめたのだった。
あまりに唐突な出来事で、アキラは反応するのに時間がかかった。
胸を圧迫されてきゅっと息をつめる。
シキが部屋にくるなりセックスに及ぶことはあっても、こんな(シキに言わせれば意味の無い)行為は…あまり経験がなくて。
"抱きしめる"だなんてどうにもこの目の前の男には似合わないような気がして内心で首をひねった。
アキラはそれからしばらく考えてから、己の腕をそっとシキの背中に回す。
たっぷりとあまっていた袖口が肘までずり落ちた。
息が苦しくなるほどきつく抱きしめられても、それでもアキラは何も言わず。
指先でシキの存在を確かめるようにその背骨をたどり、髪に指を差し込んだ。
"シキ"、と名前を呼ぼうとして、やめる。
名前を呼んで、応えてくれたとしたらきっとそのときこの腕は解かれてしまう、そんな気がして。
抱きしめられるのは心地がよかった。
まるでシキの両の腕で絡めとられているような気がした。
抱きしめられた腕が自分を外界とを断絶する堅固な檻のようで。
いつもならアキラが抱きつくことはあっても、シキからこうされた記憶はなかった。
静かな部屋でシキの呼吸だけが耳元で聞こえた。
シキの音だ、とアキラは思う。
それに、触れ合った肌から伝わるその鼓動も、間違いなく己の主のものだ。
"どうしたの"なんていうつもりはなかった。
アキラにそれを知る権利はないし、尋ねる義務もなければ、教えてもらえる保証もないからだ。
それでもこうしてどこへも逃がすまいとするかのような主はどこか必死に見えて。
間違いなくいつもとは様子が異なっていた。
「…………ずっとここにいるよ」
目を瞑ったまま、どこにも行かないよとアキラは微笑む。
左腕に刺さった点滴の管を揺らしながらそっと、その主の背を撫でた。
まるで赤子をあやす母親のように、やさしい手つきで。
幾度も、幾度も背を撫でた。
無言を貫き通すシキにかまうことなくアキラはずっとそうしていた。
返事がなくてもかまわなかった。
そんなことは問題じゃなくて。
少しだけ首を傾けてその首筋にキスをする。
「…俺さ…」
「少し黙れ」
そういいながらシキはアキラの言葉を封じるように口付けた。
その高圧的な言葉とは裏腹に与えられる口付けはとても優しくてやはりいつもとは別人のようだ、とアキラは少し笑う。
それでも嬉しいことにかわりはなくて、回した腕の力をほんの少し強める。
こうして死ねたら幸せかもしれない、とそんな考えさえ出てきた自分がおかしかった。
今日は本当に自分もシキもどうかしていると思ったけれど、それも悪くない気がして。
だからアキラはなにも考えず、シキからの口付けに溺れていった。
徐々に力も抜けて、シキに支えられたまま。
ゆっくりと海の底に沈んでいくようだ、と思いながらアキラは薄く開いていた目を閉じた。
シキといると…意識もとろけていくようだった。
「シキ……」
その名前だけが、自分を生かすと知っていた。
[23回]
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