*afterglow-09*
…………―――――。
何かの音がする。
音と、言えるかどうかはわからなかったけど、アキラには確かに"それ"が"聞こえた"。
(なんのおとだろう…)
遠いような、しかしとても近いようなその音がアキラの中で響いていると気づくのに時間は大して必要ではなかった。
ふわりとした意識の中でアキラはそっと胸に手を当てた(つもりになった)。
(…きこえる)
そこは暖かくて、気持ちがよくて…まどろみの中でほぅと息を吐く。
まだ…もう少しこのまま。
ため息がきらきらした小さな球体になって足元を転がっていくのをアキラは見た気がした。
(あったかい…)
そうしてアキラはしばらくしてからゆっくりと目を開けた。
どうしてもそうしなくてはいけない、気がして。
「………ぁ」
ぱちり、ぱちり、と何度か瞬きをしてアキラはふんわりと微笑んだ。
「……………おかえり」
広いベッドの端に腰掛けたシキがゆっくりとした動作でアキラの髪を梳いていたのだ。
赤い瞳はいつものように熱を灯すことなく、ただじっとアキラを見て。
アキラを…見て。
「なぜ笑う」
第一声はアキラの名前ではなかった。
本当は名前を呼んでほしいと思っていたことなんてどこかへ忘れて、アキラは笑む。
「俺ね…シキのこと…待ってたんだ。だから……うれしい」
「うれしい…?」
頬に充てられたシキの手がひやりと冷たく、アキラはまたしても小さく笑った。
シキの温度が確かにその存在をアキラに教えている。
アキラが待ち続けた温度が、そこにあった。
「その感情は真実なのか?」
「…シキ?」
「壊れた理性で感じるものなど信用するに値しない。お前が歓喜だ、幸福だ、といっている"それ"が果たして本当にそう称されているものなのか、お前にわかるはずもあるまい」
「……どうしたの?」
淡々とした喋りはアキラの記憶のままそのままだ。
時折シキが瞬きをしなければ人形なのかと疑ってしまいたくなるような美しく整った顔を、ひとかけらも動かすことなく、アキラに問う。
「…お前は、誰だ?」
不意に放たれた言葉に首を傾げてアキラはその意味を懸命に考える。
主の問いには全力を持って返答をする癖が身にしっかりと染み付いていた。
「俺は…アキラ」
「それはただの名前だろう。そんなものに意味はない」
即座に切り捨てられ、アキラがきゅっと眉を寄せる。
「…俺は……シキの所有物…」
違う、とシキは首をゆるく振った。
「俺が聞いているのはお前は…いったい"誰"なのかということだ」
「ぇ…」
アキラは一生懸命答えを探そうとして、そしてぼんやりと呟く。
「俺は………だれ?」
「…さぁな。お前が知らないことを俺が知っているはずもないだろう?」
あきれたようにシキは呟くと、音もなくベッドから立ち上がった。
弾みで僅かにベッドが揺れる。
博学なシキのことだ、きっと答えはもう既に持っていて、アキラの無知をいつものようにからかうつもりなのだろう、とアキラは思った。
長く離れていた今ではそれさえも愛しく思えて主をより長く目にとどめようとアキラも身を起こしたが、部屋を見渡しても既にシキの姿はどこにもなかった。
扉の開閉音はしなかったはずだった。
「…シキ…?」
ぐるり、と見渡してもどこにもいない。
まるで存在ごとすっぱりと切り取られたような喪失感。
広い部屋にうるさくあの"音"が響く。
「………シキ」
言葉だけ、ただ薄れていく。
空気に溶けて、何も残らない。
立ち上がってカーテンの裏やクローゼットの中、ベッドの下まで探して回って。
部屋を出て執務室、広間…すべて見て回る。
「シキ、シキ、シキ………ッ!!」
…――――――――――――。
(うるさいうるさいうるさいうるさいっ)
音がだんだん大きくなる。
自分が発している声すらうまく聞き取れない。
もはやアキラの中から聞こえているのか外から聞こえているのかわからないほどだ。
脳を揺らし、かき乱す音は聴くだけでひどくアキラを不安にさせた。
これがきっと限界だというところまで音は大きくなり続け、そして突然に痛いほどの静寂が訪れる。
アキラは音が大きくなりすぎてきっと聞き取れなくなったから耳が壊れたのだと、思った。
ぺたりと座り込んで、それでも、主の名を呼ぶのはやめなかった。
「アキラ!」
はっと息を呑んで反射的に体を起こしたアキラは急激に体を動かしたせいかぐら、と視界が揺れるのを感じた。
「…ぁ…」
「だめだよ…まだ寝てて」
体を押しとどめられて不愉快そうにアキラは眉を寄せる。
「………シキ…」
「っ…」
アキラの呟いたその一言にはっとリンは息を呑んだ。
リンがアキラと体をつなげるようになって、正しくは"シキ"がアキラを抱いてからアキラはまるで機械のように夕飯のあとにリンがアキラの寝室を訪れると決まってリンを"シキ"と呼んだ。
そこからリンは"シキ"に変わるのだ。
もう慣れたと思っていたのに、と一人ごちる。
ただ心構えをしていないというだけで、こんなに痛いのか、と。
「シキ…シキはどこ…っ」
(あぁ…俺を呼んだわけではないのか)
「アキラ…だめだよ…倒れたの覚えてないの?」
「いやだ…っ…だってシキがここにいたんだ!はやく…探さないと!」
体の自由を奪う点滴の針をアキラは忌々しげに体内から抜き取った。
一滴だけ血がぽたり、と落ちて真っ白なシーツににじむ。
無機質な部屋の中で赤い、赤い、そこだけが生の匂いがした。
「だめだ!おとなしくしてて!それに………シキはまだ帰ってきていない!」
その言葉にアキラは二度瞬きをして、くたりとベッドに身を横たえた。
落胆したという言葉のほうが正しいかもしれない。
「シキ…いないの?」
「うん」
「そっか…ゆめ…なんだ」
点滴の絞りを0にして、ひとまず液体の流出を防ぐとリンは乱れたアキラの髪をそっとなでた。
「夢、見たの?」
「そう…シキが…いて…………俺に"お前は誰だ"ってきくんだ」
「シキがそんな事いったの?」
頷いてそのままリンを見つめた。
「ねぇ…俺は…誰?」
シキにきかれたままに今度はアキラがリンへとたずねた。
「アキラはアキラでしょ」
当然だ、というように返された答えに、違うのだ、とアキラはゆるく何度か首を振る。
そしてそっと両手で己の耳をふさいだ。
「アキラ…?」
「聞こえるんだ…うるさくて…ずっと」
「音?…何の?」
「…わからない」
アキラと同じようにリンも自分の両手で耳を塞いでみるも、聞こえるのは腕の筋肉の振動する地鳴りのような音だけだ。
「耳鳴り…かな」
「ちがう…」
ちがうんだ…とポツリと呟く。
その声はあまりに弱弱しく、そして泣きそうでリンの目が苦しげに細められた。
「ちがうんだ…これは……」
そう、この音は。
……――――――――――。
(あぁ…そうか)
「これは………からっぽのおとだ」
(……俺の中には何もないから)
アキラは答えを見つけて満足したのか、どこか充足した顔と、そして悲しそうな顔をしてゆっくりと意識を沈めていった。
深い深い……底へ。
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あとがきは続きから!
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